2025年、世界ではカムチャツカ半島の火山噴火や南米チリ沿岸でのM8級地震など、大規模な自然災害が立て続けに発生しています。一方で、日本では確かに地震や火山活動の小規模な観測はあるものの、直近で大規模な地震や火山噴火は発生していません。
「これは日本が何かに守られているのでは?」と考える人も増えており、SNSでも
「海外がこんなに揺れているのに、日本だけ無事なのは不思議」
「富士山も噴火せず、南海トラフも来ていない…やはり何か見えない力に守られているのでは」
といった声が目立ちます。
🔍 “守られている”と感じる背景
1. 災害予兆の報道と実際の発生のギャップ
気象庁は常に「南海トラフ地震や首都直下地震への備え」を呼びかけていますが、予測レベルの警戒と現実の発生が一致していないため、「なぜまだ来ないのか?」という違和感が生まれます。
例:
- 2011年東日本大震災後、「10年以内にM7クラスの余震が起きる」と警戒されていたが、実際には大規模余震は少なかった。
- 富士山についても「噴火の可能性はゼロではない」と言われ続けるが、400年以上活動が静穏。
2. 海外災害の“連鎖”による対比効果
- 2025年6月:カムチャツカ半島東部で大規模火山噴火
- 2025年7月:南米でM8.0級の地震、太平洋津波警報が一部地域で発令
- 2024年:アイスランドで噴火が長期化
こうした報道が連続し、日本の相対的な「静けさ」が強調される結果、「日本は守られているのでは?」という印象につながりやすいのです。
🏯 科学的視点:偶然か、それとも周期の谷間か?
地震学者の多くは、「日本が災害に遭っていないのは単なる地震活動の周期的な谷間にあるだけ」と指摘します。
- プレート境界型地震は100年単位での発生周期があるため、“静穏期”に見える時期が存在する。
- 火山活動もマグマ供給速度の違いで噴火間隔が異なり、富士山のように数百年単位で休止する火山もある。
実際、2018年の北海道胆振東部地震(M6.7)や2021年の福島沖地震(M7.3)など、局所的な大地震は起きていますが、全国規模で見れば“大災害”には至っていないだけともいえます。
🕊 “守られている”という文化的・心理的背景
日本には古来から「神仏が国を守る」という思想があります。伊勢神宮や富士山信仰はその象徴であり、災害がない期間には「ご加護のおかげ」という声が強まります。
例:
- 2011年震災後、伊勢神宮や出雲大社への参拝者数が急増。
- 富士山が噴火していない現状を「霊山が鎮まっている証」と解釈する人も。
このような宗教的・文化的な背景が、「守られている」という感覚を社会的に支えている面もあるのです。
⚠️ 「守られている」と思うことの危うさ
ただし、防災の専門家はこの考えに警鐘を鳴らしています。
- 「災害が起きていない=安全」ではなく、備えを怠るリスクにつながる。
- 南海トラフ地震のような長期的リスクは確実に存在し、「静穏期」こそ準備期間とするべきだとしています。
具体例:
- 熊本地震(2016年)前も、九州は「地震の少ない地域」とされていたが、結果は連続地震に発展。
- 東日本大震災も「三陸沖は地震が多いが大津波は来ない」との慢心が被害拡大につながった。
📝 まとめ:「守られている感覚」と現実的備えの両立を
確かに、日本が今“大災害”から免れていることは幸運です。しかし、それを「守られている」とだけ解釈するのは危険でもあります。
- 科学的には、プレートの歪みは確実に蓄積しており、将来の巨大地震リスクは消えていない。
- 一方で、文化的・精神的な「守られている」という感覚は、不安定な時代を生きる人々の安心材料としても機能しています。
結論としては、「備えを続けながら、心の支えとして“守られている”という感覚を持つ」という、科学と文化のバランスが必要なのかもしれません。
こうした視点で見ると、今の「日本の静けさ」は単なる偶然とも、周期的な現象とも、あるいは文化的解釈とも言える状況です。
あなたは、この“静けさ”をどう捉えますか?